敬語

『〇〇さんって敬語キャラなんですね』

 

学生時代、少し気になる女の子に言われた事があった。

いつでも誰にでも敬語というコミュニケーションを、プラスに捉えてくれていたかは分からないが、他人から初めて言われたということもあり、今でも覚えている。

 

いつからかは覚えてないが、性別・年齢に関係なく、基本的に会話は敬語で話す。

『自分の知らない時代や環境で生きてきた他人は、自分の知らない

未知の知識や経験を持っている。それならば、敬意を払うべきである。

だから男も女もなく、歳の差なんて気にしない。

友人知人や、職場の同僚上司、先輩後輩にいたるまで例外はない。

人間関係は、一歩引いたところから行う方が、お互い距離を少し感じる方が、

面倒くさくなくてスマートなんだ』

 

そんな 教養ぶったというか(こうして文字にする行為自体が教養ぶっていると思う)、

‟あえてそうしているだけだ”とカッコつけた 言い訳を15年以上ついている。

 

距離の取り方が28歳にもなって未だ分からず、仲良くなったと、打ち解けたと明確に

判断できる証拠を見つけられるまでは、恐る恐る言葉を交わし、返答から

勝手に相手の心の中を妄想し、決めつけ、嫌われているのではと予想する。

だから、他人と仲良くなるまでの過程にストレスを強く感じてしまう。

 

ストレスが強くなるほど、私はどもる。

自分のどもり顔や、その姿は、例えようもないくらいみじめで、情けない。

そんな姿を目の前で見せられた相手の、【自分とは違う何か】を見るようなというか、

"可哀そうな人”を憐れんで合わせてあげているような、仕草や態度にとらわれる。

会話の内容や、会話自体を楽しもうと考えるよりもずっと前に考えてしまう。

社会人になってから少しづつ、"まともに話せない変な人”と笑われ、話のネタにされる事に安心するようになってきている。

笑われている時は、会話の中心に自分もいて、

輪の中に、それも中心人物として好意的な感情を持ってもらっているんだと思える。

 

【笑ってもらえる=嫌われてるとは考えにくい=好意を持たれてる可能性がある】

 

そんな自分勝手な思い込みで、決して嫌な事ではないんだと、

むしろ強みである(同情され、頑張っている人だなと思われる)と、

卑屈で情けない思考によって思い込む。

 

では、仮に吃音などでなければ、事態は好転していたのか。

答えは全然違う、NOである。

私には、何かに打ち込み続けられる忍耐力もなければ、失敗から学び取る学習能力がない。

好きなことに熱中できる好奇心や向上心の類も平均以下(これも卑屈な妄想かもしれないが)である。

 

だから、自分を "可哀そう” だとか、“仕方ない” などと思う事自体が、誰かのせいにして

諦める口実にしている証拠なんだと思う。

結局私という人間は、自分の事は心底嫌いだが、

【吃音に悩まされている不憫な男】

という勝手に自分に張り付けたレッテルに甘え、同情を利用して姑息に生きている男なのだ。

 

こうして書いている間も、自分の不甲斐なさを利用し、同情を買おうとしているのだろう。私は自分が信用ならない。

自分を見つめ直したいとか、変わるきっかけが欲しかったとか、考えなかったといえば

嘘になる。でも、それは上っ面の理由で、何かを新しく始める事に億劫な自分への

都合の良い言い訳が欲しかっただけなんだ。

 

ほんの少しでいい。

みじめな自分に嫌気がさしたなら、今から何か始めてみせろ。